We Love プリンス自動車

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1963年 第1回日本グランプリ予選「プリンススカイライン1900DX」

序章
<すべては耐えがたき屈辱からのスタートでした>

誰が見てもカッコイイ、ハコスカGT-R。 その誕生には男のドラマが存在していました。

スカイラインGTはS50のスカイラインがそのルーツです。そもそもは大人しい1500ccの4気筒エンジン搭載のミドルサルーンという位置づけでした。その性格上、スポーツ&レースとは無縁の存在でした。

昭和38年(1963年)第一回日本グランプリが開催されることとなります。各メーカーは参戦を予定します。そこである紳士協定が約束されました。このレースの開催趣旨はメーカー同士のワークス争いではなく、広く一般ユーザーにも参戦を呼びかけ日本のモータライゼーションを底上げすることにあるとしました。紳士協定の約束とは「1.参加はプライベート(個人レベル)のみとし、メーカーによるワークス参戦はしないこと」「2.参加車両は市販されるそのままの状態とし、足廻りの強化、エンジンの出力アップなどのレース用チューニングは一切しないこと。」 プリンス自動車は、その約束を忠実に守りました。

企業として人間として約束事を守るのは当然のことです。
その根底には、何もしなくてもライバルメーカーに勝つ自信と自社の自動車性能は他社を圧倒しているという自負があったのでした。第一回日本グランプリの結果はまさかの惨敗。ライバル他社は紳士協定を無視してサーキット用にチューニングした市販車ベースの改造レース車を持ち込んでいたのです。

優勝したメーカーはグランプリの凱旋報告を新聞などを使って華々しく展開したことで敗戦メーカーの屈辱感はピークに達します。第一回日本グランプリの宣伝効果は現代の基準で創造するよりはるかに大きなものでした。フアフアとした乗り心地の市販車をそのままレース場に持ち込んだプリンス自動車は、カーブで安定しない車というレッテルを貼られてしまいます。市場では、プリンス自動車は不安定で危険な車の評判が立ち販売数も減ってしまいました。

この結果に当時のプリンス自動車社長は激怒。「お前ら、何もしなかったのか!」本当に何の改造もしていない素のままの市販車をレース場に持ち込んでいたのです。

これもすべて、メーカー間の約束を忠実に守った結果でした。

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1963年 第1回日本グランプリ決勝「プリンススカイラインスポーツクーペ VS 日産セドリック1900DX」

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1964年 第2回日本グランプリ決勝「プリンスグロリアスーパー6」

男の顔に泥を塗られて黙っている「プリンス自動車」ではありませんでした

「次があるなら万全の体制で臨む。」を合言葉にプリンスは全社をあげて優勝するための車両開発を始めます。

約束を反故にされた屈辱をバネにして、正々堂々と力で真っ向勝負に挑みました。

しかし、翌年の日本グランプリまでには1年しかありません。 参戦できるホモロゲーション(参戦資格)は、100台以上の市販実績のある車両。 一年以内の開発ではなく、一年以内に100台以上を生産し販売しなければならないのです。開発期間は半年もありません。 ゼロからのエンジン開発&車体開発では間に合うことは到底無理。

そこで1500ccクラスのS50スカイラインのエンジンルームを広げてグロリアの2000ccエンジン(G7型6気筒)を搭載したのです。 エンジン性能とボディのシャーシバランスの問題で、こういう荒っぽい手法はメーカーとしては例をみない荒療治になります。

勝つことが絶対条件、追い込まれたプリンスの開発陣は手段を選ばずの選択でした。 設計の陣頭指揮をとったのは、あまりにも有名なスカイラインの生みの親、「櫻井眞一郎氏」。

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1964年 館林市旧滑走路ドラッグレース「プリンススカイラインS54BR VS ポルシェ904GTS」

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1964年 全日本ツーリングカードライバーズ選手権「プリンススカイライン2000GTB」

昭和39年(1964年)第2回日本グランプリで優勝することは絶対条件であった

当時としても、尋常ではない車両の制作方法でした。手作業の溶接でボディの全長を約20cm伸ばしました。すべては、あまりにも短い期間での車両開発というしわ寄せです。

どんな手段を使っても、次のグランプリには絶対に優勝しなければならなかったのです。ウソをつかれ顔に泥をぬられた相手にも、正々堂々の真っ向勝負。小細工は不要、圧倒的なパワーで勝利をする手法を選択しました。

ポルシェ相手に互角に戦った、第2回日本グランプリ。国産車ではスカイラインGTと互角に戦える相手はいませんでした。MGなどの外国製スポーツカーもスカイラインには全く追いつくことができませんでした。グランプリ直前にプライベート参戦が決まった「ポルシェ904」。ポルシェは市販車でも、サーキットを走ることを目的に制作された純粋なレーシングカーでした。

そのポルシェの前に、惨敗するかとみられた「スカイラインGT」は、勝負には負けましたが善戦。一時はポルシェを抜き、トップで走ることもありました。

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1966年 第4回クラブマンレース

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1966年 第3回日本グランプリ予選「R380A-I改 生沢選手」

スカイライン神話の誕生前夜

第2回日本グランプリを終え、結果的には優勝を逃し2位に甘んじたプリンス自動車。 しかし、レーシングカーと互角に争った「スカイラインGT」はレース後、飛ぶように売れ出します。

そのとき、櫻井眞一郎氏率いる「プリンスワークスチーム」は、レースで負けた悔しさをかみしめるより、次の高い目標を掲げていました。 「自社開発でポルシェ904のようなレーシングカーを作ってみたい。」という飽くなき探究心。これぞ「プリンス魂」です。 そしてプリンスR380への開発がスタートしたのです。

R380のエンジンは、あまりにも有名な「スカイラインGTーR」と同型のエンジン。 まるでフェラーリの創始者「エンツィオ フェラーリ氏」のような思想がGT-Rには存在していました。

「すべてはレースのために・・。」市販車のエンジンをチューンナップしてレース用エンジンを作るのではなく、レーシングカーエンジンの出力を落として、市販車に積む(PGC10スカイライン及びその後のKPGC10スカイライン)。プリンスフアンには震えるくらいのたまらない思想です。

昭和41年(1966年)第3回日本グランプリでプリンスR380は祈願の総合優勝を果たします。

その後、プリンス自動車は日産自動車と合併。 プリンス自動車がもちえた情熱&魂は次の時代のスカイラインGT-Rに受け継がれていきました。

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1966年 第3回日本グランプリ決勝「R380A-I改 砂子選手」

プリンス自動車

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